白い杖 第38号


和歌山市視覚障害者福祉協会機関誌「白い杖」第38号




和歌山市視覚障害者福祉協会機関誌

白   い   杖

(第38号)


目   次

巻頭言……………………………………………………………  1
和視協この一年を振り返って…………………………………  2
平成21年度和視協女性部活動報告……………………………  3
みんなの広場……………………………………………………  8
  その1 マラソンとの出会い……………………………  8
  その2 ちょっとほっこり……………………………… 11
  その3 おじいちゃんの手引き………………………… 12
  その4 二つ星ホテルに宿泊して……………………… 13
  その5 「13」………………………………………… 15
  その6 カラオケ大会に参加して……………………… 16
  その7 伴走者とのふれあいを通して………………… 17
  その8 盲導犬がやって来た…………………………… 19
文芸部へのお誘い……………………………………………… 28
  「若竹」投句集(俳句)…………………………………… 29
  「ドングリ」投句集(川柳)……………………………… 30
お楽しみ懸賞クイズ…………………………………………… 32
編集後記………………………………………………………… 33


製作・発行:和歌山市視覚障害者福祉協会
〒640-8314 和歌山市神前285-16 電話073-472-7872
ホームページ・アドレス http://washikyo.org/


巻  頭  言

和歌山市視覚障害者福祉協会
会 長  畠中 常男

 今年も春を迎えることとなりました。 まず、会員の皆様には、この一年、当会活動へのご協力を賜り、執行部一同、心より感謝申し上げます。
 さて、早いもので、この欄への執筆も4回目となります。
 その間、私たち和歌山市に住む視覚障害者を取り巻く環境も少しずつではありますが改善して来たと感じております。
 ただ、世相そのものが混迷しておりますので、長い目で見て、この4年間が上り坂であったのか、はたまた下り坂であったのか、私自身今ひとつ判断できないと言うのが正直な気持ちです。
 昨年8月の総選挙で政権が交代し、障害者福祉の基本法であった障害者自立支援法が廃止され、遅くとも2013年8月までに、新しい障害者のための基本法を作り、より現実に即した福祉施策を講じるというのが現政権の構想です。
 また、それに向けての改革推進会議の委員に、多くの障害者が参画しているとも聞いております。 話を素直に聞くならば、たいへん先行きに明るさを感じますが、なにせ財源不足のこの世相ですから、状況を正しく見極めることが大切です。
 それとともに、世間に対し、もの申すにしても一人の声では単なる愚痴・つぶやきにしかなりません。 こう言うときこそみんなで話し合い、みんなで考え、お互いに助け合える和視協の存在が、ますます大切となります。
 どうぞ今後とも、和視協をよろしくお願いいたします。

和視協この一年を振り返って

書 記  能澤 義和

 和視協会員の皆様こんにちは、書記の能澤です。 早いもので私も書記として執行部の仲間入りをさせていただき、早や2年が経過しました。 まだ会の活動には慣れず、会長を始め執行部の皆さんの後を一生懸命追っかけているようなしだいです。
 皆様にはいつもご迷惑をおかけしているのではないかと不安の毎日です。
 さて今、私たちを取り巻く社会情勢を見ますと、大きな変革のときを迎えようとしています。政府も長年続いた自民党政権から民主党政権に代わり、不評を買っていた自立支援法も見直されようとしています。 政府の中には総理大臣を長とした障害者制度改革推進本部が新しく設置され、当事者である多くの障害者の代表がそこに参画するようにもなりました、今後の動きに注目したいと思います。
 和視協におきましても、この1年間、充実した活動ができたのではないかと思います。 ひとえに会員の皆様方のご協力のおかげであると心より感謝いたします。 この1年を振り返る意味で、今年度実施された本会の主な活動内容を以下にご報告いたします。

  〔平成21年〕
 ◎ 4月 5日(日) 和視協21年度定期総会 ふれ愛センター 
 来賓に障害福祉課長・社協会長・連盟会長・県視協会長が臨席。市長よりメッセージ 市議会議長より祝電あり。
出席者46名、委任状31通。議長に宮本克二氏、副議長に東克己氏選任。
20年度事業や決算等、総会の各議案は、すべて原案道理可決された。

 ◎ 4月26日 和視協執行部会・第1回理事会・市身連代議員総会 
 理事会では、21年度の事業計画として、点字教室、社会見学、教養講座、福祉学習会、文化研修会等についての日程が決定され、女性部や関連団体の行事についても計画案が提起された。

 ◎ 5月10日(日) 市身連福祉大会
 行き先は「西宮ガーデンズ」及び「梅田空中展望台」で、本会から介護者も含めて36名が参加した。

 ◎ 5月27日(水) 第62回日盲連京都大会
 大会は京都市国際会館で全国から約2000名近い多くの参加者の下開催され、笹川日盲連会長の挨拶等、各界の代表者による挨拶他が行われた。 本会からは介護者含めて16名が参加した。

 ◎ 5月28日(木) 市身連第1回理事会 
 21年度行事予定 市身連の財政について 補助金対象外の支出を削減し、財政逼迫に対応すること等を協議した。

 ◎ 6月 7日(日) 点字教室 参加者は26名。
 京都府立盲学校教諭 岸博実先生の講演で、演題は「点字のないとき、点字のあるとき」が行われた。 併せて、機関誌「白い杖」クイズの正解発表と正解者の表彰も行われ、宮地良和さん、澤田涼子さん、幸前勇さんの3名が表彰された。

 ◎ 7月 5日(日) 第1回和視協教養講座 参加者26名。
 「音楽療法について」 和歌山音楽療法研究会理事長の多田加世子氏他により、参加者全員がリズムに合わせて楽しく歌った。

 ◎ 7月12日(日) 県視協点字競技会
 県総合福祉会館で行われ、当会の小池氏1位、佐野氏2位、郡氏敢闘賞をそれぞれ授賞された。 また、点字技能士の坂井法子氏の講演も同日行われた。

 ◎ 7月19日(日) 市身連将棋大会 
 当会より山嵜景生氏が参加。 団体戦では肢体協会が優勝した。

 ◎ 8月 9日(日) 鍼灸の日キャンペーン
 JR和歌山駅前と、南海和歌山市駅前において、「はり・きゅうの日の街頭キャンペーン」活動の一環として、無資格反対のビラ配りを関係団体と共に行った。

 ◎ 8月23日(日) 県視協法人化推進委員会
 県身連・県当局の理解を求め、その後法人化を計ることとなった。
 ◎ 8月28日(金) 和歌山市福祉対策協議会 
 ガイドヘルパー・ホームヘルパーの利用可能要件の拡大や、視覚障害者に対する代筆・代読サービスをコミュニケーション支援事業として実施してもらえるよう他を要望する。
 小松課長よりガイドヘルプについては、和視協・市身連の行事を別枠とすることが可能で、月10時間を超えての利用も可との話あり。
22年1・2月頃に、和視協での説明会を持つことが約束された。

 ◎ 8月30日(日) 執行部会・理事会
 主に本年度後半の事業について協議した。 また、点字プリンタの修繕費を、特別会計から支出することも承認された。

 ◎ 9月 7日(水)
 市障害福祉課課長より、移動支援に関する回答が文書で届く。
 内容は和視協の会議・行事への参加は、役員等でなくても社会的理由として受け付けるとの事であった。

 ◎ 9月13日(日) 第52回県身連福祉大会
 有田市市民会館で行われた。本会からは23名参加。
 河西分会の藤岡愛和さんの奥様、藤岡和美さんが、連盟会長表彰「白菊賞」を受賞された。

 ◎ 9月20日(日) 県視協主催第36回俳句大会
 田辺市市民総合センターで行われた。 和歌山市が団体優勝。
個人賞では、新光分会の辻岡正文さんが「天賞」(1位)を、河北分会の宮原俊恵さんが「人賞」(3位)に入賞された。

 ◎ 9月27日(日) 和視協社会見学・文芸大会 
 福祉バスにて日高町の道成寺に行った。
 参加者は介護者含めて31名であった。

 ◎ 10月18日(日) 和視協福祉学習会
 「白杖の使い方とふれあいセンターのガイダンス」が行われ、パネルディスカッション形式で行った。 講師には、執行部の畠中、北口、幸前が当った。 参加者は21名であった。

 ◎ 10月25日(日) 市身連第1回教育講座
 観光バスにて高野山見学を行った。
 本会からは介護者含め23名が参加した。

 ◎ 11月10日(木) 市社会福祉協議大会
 和歌山市民会館にて行われた。 松下淳二氏が市社会福祉協議会会長賞(社会福祉功労賞)を受賞した。

 ◎ 11月15日(火)
 県視協女性部研修会が白浜町で開催され、和視協からも出席した。

 ◎ 11月20日(日) 日盲連近畿ブロック委員会
 神戸市福祉センターにて開催され、笹川会長による中央情勢報告や、各県情報交換が行われた。

 ◎ 11月22日(火) 県視協法人化推進委員会 
 県総合福祉会館にて開催された。 法人化して行う事業の目的・採算などを十分研究することについて審議された。

 ◎ 12月 3日(水) 
 副会長の山嵜景生氏が厚生労働大臣賞を受賞。
 授賞式は厚生労働省において行われた。

 ◎ 12月 4日(木)
 新光分会新原氏の奥様、新原紀代子氏が紀の国チャレンジド・サポート感謝状を受賞。 県庁において表彰式が行われた。

 ◎ 12月 6日(土) 和歌山市福祉賞授賞式
 副会長の山嵜景生氏が市長表彰の社会福祉功労者賞を受賞。

 ◎ 12月 6日(土) 市身連第3回理事会
 アバローム紀の国において4時から行われた。
第2回教育講座、22年度代議員総会、22年度福祉大会、その他について審議された。
 なお、6時からは同会場にて市幹部との市身連懇談会も行われた。

 ◎ 12月13日(日) 文化研修会・文芸発表会 
 ふれ愛センター4階大会議室において開催され、50名が参加した。
先に行われた文芸発表会では、川柳と俳句の部で授賞された以下の方々にそれぞれ記念品が授与された。
川柳は、宮地良和氏、尾家章夫氏、南部照明氏
俳句は、宮原俊恵氏、丸山孝雄氏、辻岡正文氏
 続いて行われた文化研修会では、井澤敬三氏他による童謡を歌う会が催され、「四季の歌」や「ふるさと」等、懐かしの約30曲の童謡や唱歌が全員で熱唱された。

    〔平成22年〕
 ◎ 1月 4日(月) 市長新年挨拶
 市役所にて行われ、本会より畠中会長、山嵜副会長、能澤書記が出席した。

 ◎ 1月17日(日) 和視協研修会
 和歌山市福祉保健部障害福祉課長の小松孝雄氏を講師に招き、「福祉制度と視覚障害者について」の講演を行った。
講演では、障害福祉の現状と今後の動向について、小松氏より詳しく説明された。 参加者は30名であった。

 ◎ 2月 7日(日) 第2回教養講座
 和歌山県身体障害者連盟事務局長の、堀全良氏を講師に招き、「地上波デジタル放送について」の講演と、音声ガイド付き地デジテレビのデモが行われ、併せて、当会有志・執行部による「デジタル録音図書の活用方法について」の紹介と実演が行われた。
なお、終了後に執行部会が行われ、今年度の事業と決算について審議した。

 ◎ 3月14日(日) 最終執行部会・最終理事会
 21年度の事業並びに決算について審議された。


     〔今年度の主な受賞者〕
@藤岡和美氏  県身連会長表彰(白菊賞)受賞
A松下淳二氏  社会援護功労者賞(市社協会長表彰)受賞
B山嵜景生氏  厚生労働大臣賞、社会福祉功労車掌(市長表彰)受賞
C新原紀代子氏 紀の国チャレンジド・サポート感謝状
        (知事感謝状)受賞

     〔今年度入会された新会員〕
@橋本八重子氏   (河西分会)
A宮本里香氏    (新光分会)
B東千恵子氏    (紀伊分会)
C松岡幸子氏    (和歌浦分会)

    〔今年度退会された方〕
@上仲博康氏    (城東分会)
A大取秀男氏    (弘親分会)
B小薮宗次氏    (新光分会)
C堀川武氏     (新光分会)
D牧 進氏     (新光分会)
E三井戸誠三氏   (弘親分会)
F三井戸久子氏   (弘親分会)
G山崎芳子氏    (河北分会)

   〔今年度ご逝去された会員〕
@中島そのえ氏   (城東分会)
A柏原善一氏    (新光分会、平成20年度、前号発行後)
B藤村明宏氏    (紀伊分会、平成20年度、前号発行後)
   謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。



平成21年度和視協女性部活動報告

和視協女性部 部長  寺本 津規子

 平成21年度の女性部の活動について報告します。
 まず初めに、県女性部の行事についての報告です。
 県女性部総会と交流会が田辺市で、第38回盲女性家庭生活訓練事業が、白浜町で行われました。
 家庭生活訓練事業では音楽家、イングリッシュハンドベルの演奏家、谷本智子先生の「音楽とともに生きる」の講演を聞きました。
 いずれも本会からはバスを借りて大勢で参加しました。
 また10月には、田辺市の女性部の行事にお誘いを受け、有志で紀州加太での昼食交流会にも参加しました。
 次に本会の行事についてですが、今年最初の行事は、5月に「グループ声」の方に来ていただき、紙芝居と「声」の方々との交流会を楽しみました。
 6月の手芸教室では、希望園介護主任の堤氏にエコクラフトでのかご作りを教わりました。
 12月にはプレゼント交換会と交流会を、また、毎年恒例の料理教室は、今年は夏8月と冬2月の2回行いました。
 1月には、会員の坂井法子さんにお願いして、お琴を弾く体験をしてみました。
 そして、最終の行事として行った、3月の講演会では、料理教室の講師としても来ていただいた、鯨特代先生による「心の健康」と言う演題でいろいろな栄養をなぜ取らなければいけないのかについて教えていただきました。
 本年度も各方面の皆様の御協力をいただき、楽しく行事を行うことができました。
 来年度も、新しい方に入会していただけるよう、そして参加いただけていない会員さんにも出てきていただけるように、行事を通じて女性会員相互の親睦を深めるとともに、身近な生活を豊かにしていくための企画を考えていきたいと思います。




みんなの広場


マラソンとの出会い

東和分会 井邊 光治

 中学校へ入学したら皆それぞれに好きなクラブ活動を選びますが、私はとくに得意なスポーツもなかったし、走ることも特別に早くはありませんでした。それが友人に誘われたわけでもないのに今から想えば縁があったのかなと感じますが、何故か陸上競技部の門を叩いていました。
 当時、私の通った中学の陸上部は活動が盛んで、県内の駅伝大会で優勝したり、個人の選手でも速い人が何人もいました。 それだけに練習は熱心で、野球部とかテニス部などでは新入生は玉拾いとか特別な練習メニューがあると思うのですが、陸上部は新入生も上級生も同じ練習なので、私たち新入生にとってはかなりきつい練習だったです。
 あまりにきつい練習だったので退部した同級生も何人もいましたし、私も何度もやめたいと想ったこともありましたが、やめると言う事を言いそびれていたらなんとなく1年間は続いてしまいました。
 学年も上がり、少し走る成績も向上し、クラブをやめたいと言う後輩を思いとどまらせる立場にもなって、自分もしんどいなりにもやめられなくなり、中学卒業までの3年間は何とか続ける事ができました。 中学も卒業しこの機会に陸上競技もやめても良かったのですが、高校も何故か陸上競技の盛んな学校を選んでいて、入学すると当然のように陸上部へ入部させられて、又3年間毎日が厳しい練習の連続でした。
 高校卒業後は就職をして走る事をやめましたので、やっと6年間つづいた厳しい練習から解放された気分でした。
 その後22歳で失明をし、走る事は勿論歩く事さえあまりしない生活が30年以上続きましたので、体重も増えて不健康なメタボ状態になっていました。
 最近はマラソンブームで各地で大会があったり、シーズンにはテレビやラジオで毎週のように中継放送があったり、以前マラソンをかじった私にとっては興味がないはずがないのですが、学生時代のクラブ活動で苦しかった練習の日々が思い出されて、自分が走るなんて事は全く考えもしませんでした。
 ところが昨年の3月に和歌山盲学校で行われた伴走教室へ参加させてもらって講義を聴いていたら、皆それぞれ色々な方法で走る練習をしているんだなとわかり、私も健康の為に何か始めなければと感じました。 たまたま自宅の隣に空き地があり、そこに円周走の道具を設置して歩く事から始めましたが、それだけでは飽きたらなくなり何かのマラソン大会へ出場するとの目標を決めて少しづつですが走ってみました。
 84キロもあった体重では3分も走ると息が苦しくなり体の肉が波打つようで、まるで相撲取りの運動会みたいでした。
 それが今では69から70キロに体重も減り、走れる時間も1時間以上は続けられる様になりました。
 今は自分なりのペースで走っているので、学生時代の競技マラソンほどではないですが、やはり少しは走る苦しみがあります。
 しかし走り終えた時の何とも言えない爽快な気分は、何物にも換えがたい感じがします。 これからも健康の為に続けて行きたいと想います。
 私たち視覚障害者ランナーは伴走者と走るときは、「きずな」と言う伴走用のロープを使って手引きされるように走ります。
その伴走用のロープとは、100センチほどのロープの端を結んで輪にし、伴走者とランナーがそれを持って走るのですが、好みによって2重とか3重にして長さを調節します。
 参加者の多い大会では、スタート直後は込み合いますのでそんな時はロープを短めにして伴奏者と接近して走り、ランナーが散らばってきたらロープを長く伸ばして腕をおもいきり振って走ります。
 正式には、伴走者とランナーは50センチ以上離れてはいけないとか、ランナーを引っ張って走ってはいけないなどの決まりがあるみたいです。
 地元の大会では、伴走者と前もって練習する機会もとれますが、県外などの大会では、ほとんどの人は当日に初めて会って、ぶっつけ本番で走ります。 自分専属の伴走者と参加している人もありますが少ないです。
 私はまだ走り初めてから年数もたっていないし、それほど多くの大会に出場したわけでもないのでよくわかりませんが、特に和歌山の場合はそうですが、全国的にも伴走者の数が少なく視覚障害者ランナーが伴走者を選ぶなどは無理みたいです。
 伴走者は基本的な事(周囲の状況や路面の様子などを教えてくれながら走るなど)は皆学習しているのでその点は良いのですが、誰でも走り方に癖があり2人3脚みたいにぴったりとピッチが合えば走りやすいのですが、お互いに走りながら合わしていくより仕方がないです。 それでも最後まで合わない場合は悲惨です。
 あまり贅沢な事は言えない立場ですが、伴走ボランティアの数が増えてこの人と走りたいと選べるようになれば良いと思います。


ちょっとほっこり

マリーム ブライト

 私ね、去年の夏アメリカから和歌山にやってきたの。
 お父さんはアメリカ人だけど、お母さんは日本人で和歌山市生まれなの。 20年前に仕事の関係で和歌山に来ていたお父さんがお母さんが当時勤めていたドーナツショップで知り合い、2人は恋に落ちて私が生まれたのね。 でも、未熟児で生まれた私は両親の顔を知らないの。
 私のことはこれくらいにして、この間こんなことがあったの。
 和歌山駅から買い物に行こうと1人でバスに乗ったのね。 そう、もう和歌山にもだいぶん慣れたから1人で出掛けられるようになったのよ。 始発だったからまだ空席も沢山あり、直ぐに座れてしばらく発車を待ってたの。 そしたら発車直前に1人の人が通路を隔てた私の隣の席に座ったのね。 そして間もなくバスは出発。
 和歌山城が近づいた頃だったかな、その人が妙なことをしゃべり出したの。 私もお母さんから日本語を教えてもらっていたし、日常会話は十分理解できるつもりでいたけど、どうもそれは日本語なのかどうか判断しにくいものだったのね。 時々小さな声ながら奇声のようなものも発しているようだったので、その内どうやら中学生くらいの擁護学校に行っている子供だと気付いたのよ。
 白い杖を持って歩く私達も周りからは注目される存在ではあるけど、ある意味では彼らも好奇な目で見られるだろうね。
 バスが進むに連れて彼は空席ができるとあちこちに移動したり、小さな奇声を上げながら活発に動き回っていたの。 それが、とあるバス停に停まった時、慌てて降車口に駆け寄り降りようとしたの。
 運転士が「僕、お金は?」と声を掛ける。 すると彼は持ち金がなかったのか、いきなりパニクりだし、日本人でも理解しがたい言葉で大声を出してますます興奮しだしたの。 運転士は「お金なかったらバスに乗れやんのやで!」とさらにたしなめたの。
 しばらくそんな気まずい数分が続き、その内運転士は根負けしてドアを開けると彼は飛び降りて走って行ってしまったの。 私は運転士もいろんなお客が乗ってきて大変だなあと思い1人苦笑いを押し隠していたのね。
 その後バスは何事もなかったように走行を続けたんだけど、彼が降りてから三つ目のバス停で降りた若い男性が、「これ、さっきの子の分」と一言告げて自分の料金に追加して降りて行ったの。 運転士も一瞬唖然としたようだけど、そのままバスを発車させたわ。
 そのやりとりを聞いた私は自分の耳を疑ったのね。 よく「最近の若い者は」と言われるけど、へえこんな人もいるのだと心が洗われる思いがしたのよね。
 そう言えば、和歌山に来て知り合った私と同じ全盲のYさんが言っていたのね。
 この間大阪に行った時、降りた駅が大勢の人出混雑していて方向を失ってウロウロしていたら若いヤンキー風のにいちゃんが迷っている彼に気付いて周りの人たちに通り道を空けるよう指示し、無事に安全な所まで誘導してくれたんだって。
 その群衆はちょうど時間の重なったあのロックシンガーの矢沢永吉さんのコンサートに来た連中だったんだって。 身なりはヤンキーでも永ちゃんのファンには悪い奴はいないよってそのにいちゃんが別れ際に言ったとか。
 また、暮れにあったラジオのチャリティー募金で街角に立ったリポーターが、一番募金してくれるのはそんな気配の微塵もない若い男の人が率先して募金してくれるとも言っていたわ。
 実際、私なども電車などで席を譲ってくれるのは若い男性が多いよね。 決して私が女だからというのではないと思うよ。
 皆さんはどう思いますか?当たり前のことを当たり前のように振る舞える人の増える社会になって欲しいものよね。


おじいちゃんの手引き

東和分会    丸山孝雄

 孫が2歳のころ、家の周辺で二人で遊んでいて私の方向感覚が狂ってしまい、治療室の入り口が判らなくなってしまったことがありました。 そのおりに、孫に「裕斗じいちゃんを家につれて行って」と言ったら、私の手をしっかり握って入り口まで連れて行ってくれました。 娘がなかなか私達が家に入ってこないので外に見にきたところ、彼が何とも言えぬ誇らしい顔で私の手を引いていたそうです。
 何年か前になりますが、日本点字図書館の随想コンクールの作品で、全盲のお父さんに3歳の娘さんが、庭で線香花火をしているお兄ちゃんの窓ガラスに映る花火を、お父さんの人差指を触らせた。 お父さんはいつもその指で点字を読んでいるので、そうすればお父さんにも花火も見えると思ったのだろう、というのがありました。
 私はその随筆の3歳の女の子の優しさに大変感動したことを憶えています。
 自分自身が娘を育てた時は、毎日が精一杯だったのか、娘がお父さんが目が見えないことを認識したのは、何歳の頃だったのかもう忘れてしまいました。
 今孫は2歳5ヶ月になりますが、おじいちゃんの目が見えていないことを、すでに少しは認識しているようで、家の窓から、近くを走る電車を見て「タマ電車・おもちゃ電車が来たよ」などと私に教えてくれます。 また、絵を描いては、私ではなくおばあちゃんに持って行きます。
 あと2年もすれば、おじいちゃんの手引きをして家の周辺を散歩してくれそうです。


二つ星ホテルに宿泊して

河北分解 白杖王子

    【はじめに】
 皆さんは昨年話題になったミシュランガイドって知っていますか。 そう、飲食店やホテルを星印で格付けするガイドブックです。
 フランスのタイヤ会社が出している本ですが、世界的に有名であります。 先日それに掲載された二つ星ホテルに宿泊する機会がありましたので、その検証結果を少しご紹介いたしましょう。

   【フロント・客室案内係】
 視覚障害者であることを知らさないで予約を入れておりました。
 入り口を入ると、フロントマネージャーが飛んできて、フロント前まで手引きをしてくれました、これはどこでもしてくれますので合格ですね。 宿泊カードも代筆でした。 そして、部屋はエレベーターを降りた目の前に取ってくれました。
 係員に手引きをされて客室へと、しかし、この案内係は手引きになれていない。動きがぎこちないと思っていたら、マネージャーが「肘か肩を持っていただいて」と指示をしてくれる。
 客室に入って設備の説明をしてくれるが、「電話はベットのサイドの机にあります。冷蔵庫には飲み物が入っております。お風呂とトイレの位置は教えてくれるが、使い方を説明してくれない。最後にまとめて色々と質問してやろうと、少し意地悪く考えていたら、ドアがノックされて、年配の係の人がやって来る。 そして、若い係に変わって説明をしてくれました。 電話の位置はもちろんボタンの操作まで手で触れさせて説明をしてくれる。 風呂は、シャワーの使い方からシャンプー、リンス、ソープの位置を私に確認しながら使い勝手の良いように順番を置き換えてくれる。 トイレも、紙の位置、ウォッシュレットのボタンの位置まで手に触らせてくれて説明をしてくれ、冷蔵庫の中も、水、コーヒー、ビールと手に確認をさせてくれながら、説明をしてくれました。 そして最後に、電熱の湯沸しは危ないので、ポットに湯を入れてご用意いたしますとのことでした。
 いくつかホテルにとまったけれども、こんなに詳しく説明されたのははじめてでした。
 説明を受けた後、昼食を食べていなかったので、レストランに連れて行ってもらいましたが、エレベーターのボタンの位置まで確認をしながら説明をしてくれました。
 後で聞いたのですが、若い係は4月の入社の新人さんだそうで、視覚障害者の接客をするのがはじめてだったようで、ホテルが気を使ってベテランさんを回してくれたそうです。 後ろで聞いていた新人さん、勉強してくれたかな、次に行く機会があったら、成長した姿を見たいものです。

   【レストラン】
 ここも、さすがでした。
 係が最初に、入り口に近い席が良いか、奥の席が良いかを確認してくれて、メニューを読み上げてくれて値段やコーヒーをつけれますとか、人気のランチメニーですとか、詳しく言ってくれる。
 お客さん一人一人に、説明をしているのかと思い聞き耳を立てていたのですが、私にだけの説明のようでした。 何もいう前に、色々と言ってくれたら気分がよくて、食事もおいしく感じますよね。
 ただ、お水の位置を教えてくれなかったのは、わすれたのかな。
 ランチは、一つの皿に、ヒレカツとサラダ、パスタがのっていたのですが、それは、手前がカツ、左上がサラダ、右上がパスタと説明をしてくれたし、パンも種類とかバターの位置とかを説明してくれたのに水はうっかりミスだったのかな。
 食後にアイスコーヒーを頼んだのですが、私がいう前に、ミルク、フレッシュを入れますかと聞いてくれました。 自分が色々とお願いをする前に、先先聞いてくれたら、ものすごく気持ちが楽で、分かりにくいことも質問しやすいなと思った昼食でした。

    【おまけ】
 長くなるので、色々と書きたいことがありますが、格付け上位は、やはり星をつけてもらうだけのサービスを提供していると感じました。 それに、障害者に対する社員教育も出来ている。 今回の新人さんも、ここに勤めている限りは何れ良いホテルマンに成長することでしょう。


「13」

河北分会 南部照明

 私の父が亡くなったのは大阪万博の年の昭和45年の3月13日でした。 この日は大雪で、私もまだ職人時代の時で、初めての家に出張治療だったのですが、1時間も尋ね歩き、治療院にも確かめたのですがどうしても見つからず、あきらめて帰ったところ、訃報を知らされました。 長い治療生活の中で目的を果たさず帰ったのはこれが初めてで、正にこの日は金曜日でした。
 「虫が報せる」という言葉は私には当てはまらないが、兄はその日は仕事に行く気がしなくて休んだと聞きました。
 そして、母が亡くなったのが5月13日、この日はものすごく暑くて、名古屋から徳島まで汗だくになって帰りました。
 92歳と長生きしてくれたので、多少なりとも孝行ができて悔いはありませんでした。
 そして、極め付きは13ゲームも離して優勝街道まっしぐらの我がタイガースを巨人のラストスパートで逃したことで、2リーグ分裂の昭和25年から応援している私にはずいぶん堪えました。
 昭和48年も引き分けか1勝すれば優勝だというのに中日に負け、最後は巨人に負け、ここ一番の弱さを見せつけられました。
 今年は寅年、何としても頑張って貰って良い酒を飲ませて欲しいものです。 タイガースファンの皆さん、力を貸してください。


カラオケ大会に参加して

和歌浦分会 岡 成治

 私は、5年程前「和歌山ブルースカラオケ大会」に出場しました。 東京から有名な先生が、審査員として来るということで公平な審査をしてくれるのではないかと思い出場することにしたのです。
 この大会には「和歌山ブルースの部門」と、「自由曲の部門」が、あったので私は、自由曲の部門で、布施明の「シクラメンのかほり」を歌うことにしました。
 当日は、市民会館に千人以上の観客が入っており、自分の順番が、近づいてくると、口の中が乾燥してくるのがわかるほど緊張しました。 でも歌う前に声出しをして気持ちを落ち着かせ自分の番号と名前を呼ばれ、舞台に出た時には「思い切って歌う」と、自分に言い聞かせ、なんとかのびのびと歌うことができたのです。
 カラオケと自分の声が、ホール全体に響いて最高の気分でした。
 60人全員が、歌い終わり、いよいよ審査発表です。
 下の賞から名前が、呼ばれて行きますが、私の名前が、なかなか呼ばれません。 もうだめかなと緊張しながら待っていると最後に、「総合優勝は、岡成治さん」と呼ばれたのです。
 一瞬信じられませんでしたが、天にも昇るようなフワフワした気持ちで賞状とトロフィーをもらい、一気に嬉しい感覚が込み上げてきました。 自分なりに研究して練習してきたことが評価され、あきらめず努力することの大切さを知りました。 この大会を通じ、音楽の奥深さや精神面のコントロールの難しさなどとても良い勉強になりました。 カラオケは、障害者と健常者が、同じ土俵で勝負できるところがおもしろいと思います。 これからもさらに自分を高め、レベルアップするよう努力したいと思います。
 皆さんも何か興味有ることに挑戦してみませんか。 日々の暮らしが楽しくなるはずです。


伴走者とのふれあいを通して

紀伊分会 野尻 誠

 私は趣味的にランニングを楽しんでいます。 全国各地で開催される市民マラソンの大会にも遠征しています。
 私は全盲ですので、走るためには伴走をしていただける方が必要となります。 自分がもし見えていたら、いつでもどこでも自分が好きなときに練習ができるのにと、以前よりときどき考えることがあります。 しかしながら、1人で練習したり1人で大会などに参加していますと、自分から誰かにかかわりをもたないかぎり人との交流が拡がることはありません。 そういう意味において、私は伴走者が必要であることによって、人とのふれあいや人の輪という貴重な宝物をいただけていると感じるようになりました。
 そんな暖かなエピソードを、1つのレースを振り返りながら紹介したいと思います。
 昨年4月19日、初夏を思わせる陽気の中、第19回霞ヶ浦マラソン大会が、なんと2万人を越えるランナーたちが集って盛大に開催されました。
 さて、この大会の伴走者であるSさんとの出会いは、同年1月東京の代々木公園で行なわれているJBMA(日本盲人マラソン協会)主催の練習会でした。 代々木公園の1.77キロの周回コースを伴走していただきながら、マラソンのことや伴走のことで話しが盛り上がっていきました。 彼のお住まいが千葉県とのことから「それじゃ一度今年の霞ヶ浦マラソン10マイルで伴走してくださいよ」とお願いしたところ、話しがどんどんと進みました。 「10マイル(16.1キロ)を1時間20分で」を目標に置いて、その日は別れました。
 その後はメールで近況報告や打ち合わせを重ねながら、いよいよ大会前日を迎えました。 5キロの部に出場する佐賀県の友達(弱視)も同日に上京。 千葉県習志野市の茜浜公園でウォーミングアップをかねて軽く足慣らしを。 けっきょく10キロほど走ったでしょうか。 前日は体調を整えてゆっくりするものだと日頃考えている私には、Sさんの並々ならぬ意気込みや初伴走にかける思いがひしひしと伝わり、必ず明日は80分切りの目標を達成しなければと決意を新たにしました。
 その夜はパスタの店で、Sさんが主催するランニングクラブの方々と「カーボローリングの会」を企画していただき(ちょっと飲みすぎたかな)、水分とともに明日へのエネルギーを蓄えました。 この日集まった仲間は、元プロテニス選手がいたり音楽(胡弓)の演奏家がいたりと、いろんな世界をもっておられ、気さくな方々ばかりでした。
 さて当日は土浦に向かう電車の中からすでに満員状態。 やっとの思いで会場に到着。 受付やトイレを済ませるともうスタート直前。 緊張する間もなく、それでもスタートラインの近くに並びます。
 なぜなら、抜かれることより相手を抜いていくことの方が危険性が伴うからです。 なんと!ある視覚障害ランナーの伴走に銀メダリストの有森選手が。 Sさんともども思わず握手を交わしながら、お互いの頑張りをたたえ合います。
 いよいよスタート。 最初はとにかく込み合いますので、Sさんが慎重にコースを選んでくれます。 この人数ですから完全に道が透くことはないかもしれません。 さすがSさんがもっているGPS時計の威力はすばらしい! 1キロ・2キロと通過タイムを教えてくれます。 伴走者からのこのような情報はペースを考える上でとてもありがたいものなのです。 やがて5キロを通過。 沿道からは子供たちや沢山の方々が応援をくれています。 キロ5分を守りながら、10キロ過ぎから少しペースアップすれば十分目標のタイムに届くだろうと、わりと余裕に考えていたのですが、少しずつうまくいかなくなってきそうな気配。 気温がかなり上っているのでしょうか。 熱いなという思いが脳裏を掠めます。 こういう人数の大会では給水地点も混雑して危険がいっぱいです。 それでもSさんのナイス配慮がそれをもクリア。 伴走で一番大切なことは、二人三脚のように足を合わせることなのです。 それができればお互いに腕を振ることができますので、疲労具合もかなり違ってきます。 1月の代々木ではなかなか足が合わなかったのですが、昨日の練習から見事に合ってきました。 その技術をかなり勉強されたことは想像に難くありません。
 さらに大切なことは、相手への思いやりです。 どんなに早いランナーや技術をもった伴走者でも、案外それができない人が多い中で、Sさんは初伴走にも関わらずその思いやりの心を兼ね備えておられるようです(それは初めてとかベテランとか関係なく、やはり人柄だと思いますが)。 そんなことを色々と考えているうちに、10キロのポイントまでやってきたようです。 それと同時に、前半は多かった1キロごとの通過や周りの景色などの説明が極端に減少し、右折や左折などの最低限の情報しか聞こえてこなくなりました。 Sさんもかなり疲れているようです。 13キロ、14キロ、この辺りは長い道程に感じます。 後半でペースを上げる予定が熱さと疲れで、うまくいきません。 やがて周りがにぎやかになり、やっとのことゴールが近づいてきました! 「1時間20分を越えてしまった」とSさんの声。
 残り300メートルの直線を駆け抜けてついにゴール!! とても感動的なゴールを迎えることができました。 それは1月の出会いから今日に至るまでのプロセスと、今日のレースにかける熱き思いがあったからこそだと思います。 「目標はまた来年に」と誓い合って控え室のテントに向かいます。 どうやら視覚障害B1クラス(伴走あり)の種目別(35歳〜49歳の部)で3位に入ったようです。
 そこに「1秒差で敗れたぁ」と、とても悔しそうに佐賀県の友達が戻ってきました。 言葉ではそう言いながらも戦いきったすがすがしさが伝わってくるようでした。
 この大会は国際盲人マラソン大会もかねていて、全国から沢山の視覚障害ランナーが参加しています。 そんなこともあって、完走賞や賞状にはボランティアによって点字が記入されます。 伴走者にも点字入りの賞状が送られ、「大会で賞状をもらえるなんて、それも点字入りで。」と、Sさんがとても喜んでいます。
 沢山の方々との出会いに爽やかな感動を覚え、爽やかな春の風を感じながら、帰路につきました。
 このように、伴走者との出会い、そこから拡がっていく人の輪、そこには人々の心の交差点と筋書きのないドラマがあります。 新たな出会いや再会を求めて今年も走り続けていきたいと思います。


盲導犬がやって来た

紀伊分会 尾家 章夫

    1.盲導犬を持つことを決断するまで
 私が盲導犬に接したのは、盲学校時代に教頭先生から盲導犬ユーザーの集会があるので行ってみないか、と言うお誘いがあり、それまで、盲導犬を見たことも無かったので、家人と一緒に参加したのが最初だった。
 会場は、有田郡の川辺町(現在の有田川町)の盲人の歩行訓練士の資格を持っている方で、盲学校へ入学する前に、盲学校の公開講座を受講した際、手引きの仕方、され方を教えていただいた、塩浜先生のところだった。
 玄関を入るとそこは広い空間が拡がっていて、フロアに置かれた、テーブルを囲んで人と犬が混在する、今までにあまり見たこともない、新鮮な光景だった。
 話の内容は神戸市から参加した人の、震災のときのことなどの他、それぞれが日常生活の中で困ったことや、周囲の人たちの盲人への理解を望むものが、多かったように思います。 盲導犬との生活のあれこれについては、あまり無かったように記憶しています。 ただ、主人のそばに寄り添うようにして顔を並べている、犬の姿が印象的だった。
 その後も各種のイベントに参加したとき、盲導犬との体験歩行に何度か参加してきたが、その都度盲導犬の素晴らしさを知り、一度は盲導犬を持ってみたいと思うようになった。 ただ、その当時、家にはペット犬が2頭も居て、ペット犬と盲導犬の同居はできないと言われていたし、自分の視力の方も視野狭窄が進んできたとは言え、まだ白杖を使用しての単独歩行もできていたので盲導犬を持つことはないと思っていた。
 又、いろいろと盲導犬のことを知るにつけ、盲導犬の育成はたくさんの人々の善意によって成り立っており、いわば盲導犬は善意の塊であり、そう簡単に犬が好きだから、といった興味だけで持てるものではないということ。 それと全国でも900頭ほどしかなく、多くの視覚障害者が順番を待っていることなどを知り、ますます盲導犬を持つのは無理だと思うようになった。
 そんな折、長年一緒に暮らしたペット犬が相次いで亡くなり、その度に寂しい思いをしましたが、やっと犬の居ない生活が送れる。 と言った、解放感みたいなものを感じたことを憶えています。 家族みんなが犬好きだったので、甘やかしていたこともあって、犬のほうがはばを利かせていて、特に私なんかは犬に遠慮して、夜中目覚めてトイレに起きたときなど、音を立てないように犬を気遣っていたから、余計にそんな思いがしたものだった。 そのとき、ふと思ったのは、ああ、これでひょっとしたら盲導犬を持てるかなということだった。
 ところが、あとの一頭が亡くなってから、数ヶ月も経たないうちに、知り合いから子犬が産まれたから、見に来ませんか?と言われ、家内と娘で見に行ったら、その日のうちにもらう約束をしてきたとかで、数日後、生後40日のミニチュアシュナウザーの仔犬がやってきた。
 また、その2年後。前に飼っていた、マルチーズのことが忘れられない、と言って、ペットショップに可愛い仔犬が居たから、と娘がまたまた仔犬を買って来た。 いま一頭居るのに、そんなもん飼えるわけないやろう、と憤懣やるかたない気持ちだったが、仔犬たちの可愛さに負けて、自分も気持ちを癒されることもあって、ペット犬たちの居る生活がまた始まった。
 この仔犬たちの寿命を考えると、15年は固いだろうから、そうなると自分は何歳になるか?。自分と犬達との寿命競争だな!。とか、ああ、これで盲導犬も完全に消えたな!、などと想いをめぐらしながら、まあ、これでいいのかもしれない、と自分に言い聞かせていた。
 その後は盲導犬のことは頭からすっかり消えていたが、昨年7月ふれ愛センターで盲導犬の体験歩行会が行われ、犬と触れあえるから、と言う理由だけで参加した。 その後、10月にもまた盲導犬ユーザーの生活体験についての話と体験歩行をする機会があり、盲導犬についての理解を深めることとなる。 でも、その時点では自分がユーザーになるとは考もしなかった。 ただ、そのとき訓練士の方がペット犬が居てもうまくやっていける犬も居るから・・・。とつぶやくように言われていたのを耳にして、またまた盲導犬への想いがふつふつと湧いて来たのだった。
そして、その体験歩行の数日後、訓練所のほうから盲導犬は如何ですか?という電話が入り、ええっ! 私がですか!? 一瞬聞きなおしたが、うちには2頭もペット犬が居ますから、多分ムリでしょうとお断りした。 それに、体験歩行された中で私より盲導犬を必要とする人がいるのではないですか?とも言ったのだが・・・。
 返事は後日でいいので、考えておいてくださいと言われ、電話は切れた。
その後、家中で盲導犬のことが話題になり、どうしたものか? 家族会議となった。 盲導犬の世話はユーザー本人が当たるのは当然のことながら、家族の協力は欠かせないので、家族の者が駄目と言ったら止めておこう、と考えていた。
 「お父さんの動きを見ていると、危なっかしいからね!」
 「以前、散歩中、車を避けようと道路の端に寄りすぎ、崖から落ちたこともあったしね…」
 「この辺は田んぼや用水路が多くて、危険が一杯だから、盲導犬が来たら安心して散歩に行ってもらえるのだろうけどね…」
 「犬が居る生活は慣れているけど、家の中に3頭も居るのはどうかなあ!?」
 シュナウザーを世話していた娘は、「次々と犬が来て、みんなの目が他の犬に注がれるのでシュナウザーのハウルがかわいそう!」。などと言う話が出て、私自身、なかなか決断できなかった。
 そうこうしているうちに、訓練所の田原所長からどうしますか?、と返事を求める電話が入った。
 「ううん、やはり、ペット犬のことが・・・」
 「ああ、それなら一度犬を連れて行きますよ。」「犬同士の相性もありますから、その後決断してもらっても構いませんよ!」。と言うことだった。
 数日後、訓練士と一緒にニースがやってきた。
 丁度娘達も休みだったので、家族みんなでニースを迎えることになった。
 ニースはおとなしい性格のようで、2頭のペット犬達のやかましく、吠え立てる歓迎にも、威嚇するような態度は見せず、ニースは無視して、専ら家族の皆に愛想をふりまいているようだった。
 家族の者は口々に、「賢いなあ!」、「可愛いなあ!」、と言いながら、ニースを見つめていた。 かくして盲導犬を持つことを決意する。家族から背中を押されて…。

    2.盲導犬授与式から共同訓練まで
 盲導犬を持つことを決断した後、ライトハウスの訓練所から今回の犬は和歌山市のアゼリアロータリークラブからの寄贈によるもので、授与式に出席してほしいとの連絡があり、詳細が分らないまま、所長の田原さんとアゼリアロータリークラブの総会で行われた、授与式に出席した。
 会場では御礼の言葉を述べたり、マスコミも取材に来ていて、ラジオのインタビューを受けたり、思わぬ事態に慌てて、何をしゃべったやら…、それはそれは冷や汗ものだった。
 その後、共同訓練を受けるに当たって、支援費申請の手続きや、健康診断書などの書類の提出などもろもろの準備をすませた。 また、1ヶ月間と言う長期の宿泊による訓練であることから、それなりに着替えや日用品の準備に多忙な日々が過ぎる。
 入所は2月16日と決まった。 一番寒い時期であり、また、金剛山の麓で平地に比べ、2・3度は気温が低い、と聞いていたので、防寒対策は欠かせないと考え、毛布やカイロなども用意した。
 それと、なんと言っても、66歳での訓練であり、体調の維持が心配で、持病の薬やドリンク剤なども用意した。
 なんやかやで持って行く荷物は膨れ上がって、大きなスーツケースと小物を入れたバッグの三つとなった。
 入所当日は、前日まで比較的暖かな日が続いていたのに、その日から寒波がやって来たとかで、寒さがぶり返し、日本ライトハウスの行動訓練所のある、大阪府千早赤阪村は山間部であり、ただでさえ寒いのに寒波の来襲となると、こりゃあ、先が思いやられる。と幸先の悪い出発となった。
娘の運転する車で、家内も付き添ってくれて、国道24号線を橋本市へ、そこから紀見峠を越えて、河内長野を経由して千早赤阪村へと走る。 だんだんと山の中へ入って行き、行きかう車も殆どなく、道を間違えてないかなどと心配になるほどだった。 山中に入るにしたがって、気温も平地より2度下がった、と車の寒暖計が示しているという。 やがて、山の間に集落が見えてきたとかで、この近くだろうと安堵の吐息をつく。 ところが、訓練所はここから更に坂を登ったところのようで、案内板に従い、車は登り始めた、座席で感じる車の傾きやエンジン音から察すると相当な急坂のようだった。 坂を上り詰めたところが訓練所のようで、無事に着いて一同ホットため息をつく。 よくもまあ、こんな山の上に訓練所をつくったものだと、感心するやら驚くやら。
 午後5時入所。その後は担当の訓練士の方から、入所に際しての必要書類の確認や、入所生活についての諸事項の説明の後、所内の設備の場所や使い方の説明を受ける。
 案内された居室は8畳ほどのフローリングで、ベッド、洋服ダンス、机が備えられており、エアコンの暖房もあって、まずまずの設備の部屋だったので、ほっとする。 洗面所やトイレ、洗濯室、浴室は共同使用であった。
 特に入所式などはなく、会う人ごとに自己紹介をしていただき、その際にこちらからもよろしくお願いします。 と挨拶する、といった感じで、当然のことながら盲人に対する接し方が馴れた人ばかりで、ほっと安心する。
 今回の共同訓練には、山口県から参加した女性の方と二人で、1ヶ月間ご一緒するので、お互いに自己紹介しあい、長丁場だけど頑張っていこうと、誓いあった。
 彼女は下関市に弱視の旦那さんと小学四年生の娘さんを残して、この訓練に参加していて、家族のことが心配で、毎日電話で様子を尋ねているようだった。 子育て現役の主婦が盲導犬を持とう、と決意したのにはそれなりの事情があったことだろうと推察できた。
 今は4年生になって、だいぶん少なくなったが、以前は子供の体調が悪くなって、急に迎えに行かなければならなかったり、授業参観などにはヘルパーさんの助けを借りなければならず、事前に申し入れが必要で、簡単にはいかなかった。
 白杖を突いての歩行は時間がかかり、又危険も伴うなど、と不便を感じていたという。 私のような年寄りの動機とは比べ物にならない、切羽つまった、必要に駆られての盲導犬の取得であり、真剣さがひしひしと伝わってきた。

    3.盲導犬との対面
 入所してから三日目。 どんな犬が自分のパートナーとなるのか、興味津々で自分の部屋で待っていた。 つれられて来たのは、やはりニースだった。 ニースは喜んでくれているようで、大きく振っている尻尾が壁に当たるのかトントンと音を立てている。
 ニースはまだ2歳に満たない、雄のラブラトールレトリバーで、以前うちに来たときと同じように、おとなしく、行儀が良かった。
 訓練は午前9時から午後5時までで、座学であったり、歩行訓練であったが、犬との共同訓練に入ると、朝起きてから夜就寝するまですべてが訓練となる。
 犬と起居を共にしながら、日常的に起こるいろいろな事柄について対処方法などを実際に行いながら、身に着けていく。
 先ずは、朝の犬のトイレ出しから始まる。 7時に犬を連れて、所定の場所へ行き、ビニールの小型のレジ袋を専用のベルトで犬に取り付け、ワン・ツウと指示しながら排便を促す。 ワンの小便の方は溜まっているのか、直ぐに終わるが、大便のツウの方はなかなかやってくれない。 犬としても、いきなり起こされて、ワン・ツウと言われたって…!、とぼやいている様子だ?。 この待つ間に寒さで震え上がってしまう。
 トイレ出しは1日に何度もやる。 歩行訓練の前後やグルーミングの後など、とにかく長時間かかる外出や作業の前後にはやらせておく必要があるという。 就寝前、午後8時に最後のトイレ出しで終わる。 餌やりは、朝夕の2回。 このときが犬達の一番の楽しみである。 洗面所で餌の用意をするカランカランという音に反応して、それまで寝そべっていた犬が、そわそわと落ち着かない動きをしだす。
 ここが一番の主従関係を植えつける時であり、又信頼関係を築くのには大切な時間であるので、甘やかさず、厳しく対処しなければならない。
 今回の共同訓練で私達二人を担当してくれたのは、女性の訓練士だった。 彼女は訓練士としては比較的経験が浅いようだったが、それだけに何事にも懸命に取り組んでいる姿が見え、頼もしく想った。
 訓練は基本に忠実な指導を心がけているようで、時には厳しく指導された。 日曜日にも訓練を行い、一ヶ月間で休みは一日だけだった。
 実地訓練は殆どが車で市街地まで出て行って、行うが、最初はハーネス(胴輪)の持ち方から始まって、訓練士が犬代わりとなって、ハーネスを引っ張り、命令語や指示語を発しながら練習を繰り返す。
 実際に歩道上を歩いたり、交差点の発見の仕方やその渡り方などを繰り返し練習した。
 ハーネスは素手で持つのが基本で、この日は雪が舞う寒さで、手はかじかみ、感触もなくなるほどであったが、訓練士さんの配慮で心まで凍りつくことも無く、無事に終え、山の訓練所に戻った。 帰ってから頂いた一杯のコーヒーで息をついた。
 実地訓練はほぼ毎日、午前と午後の2回行われるが、間に座学があったりで、訓練そのものはそれほどハードに感じたことはなかった。それでも、歩数計では一日一万歩近くは歩いた。
 犬と共同の歩行訓練を始めてまもなく、比較的真っ直ぐな道を歩いているとき、うしろから付いてくる訓練士から、もっと左によってください、犬から離れすぎていますよ!。と声をかけられる。自分としては犬のそばを真っ直ぐに歩いているつもりなんだけど…、と思いながら犬に寄り添うように歩きを変えてみる。 ところが、又しばらくすると、また、離れてきましたよ!、と声がかかる。何故だろう?、訓練士も首をひねっているようである。
 次の日、ベテランの訓練士が来てくれて、歩行の状況を見た。
直ぐ、頭が右を向いていますよ!、と言われた。
 「少し左を向いてください、そうです、その方向です。 と言われて、指示通りにしてみる。自分としてはかなり左を向いた感じで、違和感がある。さらにその状態では限られた視野では左側の上の方しか見えない。
 「右側や下は全く見えないことになるんですけど」というと、「見えないところは犬を頼りにしたらいいのです」と言われた。
 「そりゃ、そうですね!」と自分で納得したものの、その後そういう形で歩いてみると、見えない部分が多く、怖い感じがする。
 しかし、歩行としてはなるほど真っ直ぐに歩けた。 長年かすかに残った、左目の左上の視野を頼りに過ごしてきた関係で、知らず知らずのうちに常に右下を向いて歩く習慣が身について、首の曲がりとなったものだろう。 犬と歩いて初めてこのことが分ったが、このままでは将来いろいろと支障が出るだろうから、無理にでも修正に努めた。 生活習慣というものはホンとに怖いものだと痛感した。
 このとき、ベテラン訓練士の言うには、盲導犬との共同訓練の際、全盲の人よりまだ視力が残っている人の方が、歩行時に問題行動を起こすことが多い、ということだった。 視力が残っていると、判断を要する場合など、視覚に頼って、どうしても犬の行動に従わず、見えにくい目での状況判断で、過った命令をしてしまうことがあると言う。 その辺を充分注意してほしい、と言うことであった。
 そう言われて自分の考えすぎかもしれないが、弱視者が盲導犬を持つことは、あまり勧められない、と言われているような感じがして、疎外感を味わった。 盲導犬を持つと決断したのは早まったかな、と思ったり、チョット寂しい思いをした。 だが、欧米では弱視者でも盲導犬使用者が多い、とも付け加えてくれたので、やや気持ちも楽になった。
 入所後一週間が過ぎた頃、チョッとした事件が起こった。 2頭目の訓練に入所してきた人の犬が離れて、山口県からのOさんの部屋に入ってきて、中にいたキープとふざけあって、Oさんがいくら制止しても、収まらず、パニックとなったのだ。 訓練士が来て、やっとその場は収まったが、Oさんにとっては、「入所後 間もないのに、なんで、こんな目に遭わなければならないのか…?「又、犬をコントロールする自信をなくした!」などといろいろ考え込んだのか?、このときのショックで彼女は次の日の訓練を休むことになった。
 家から遠く離れた、訓練所に単身で入所してきて、不安を抱えての訓練で、気持ちもナイーブになっており、チョッとしたことで気持ちが萎えたりする。 今回の共同訓練は、年齢が親子ほど違う二人だったけれど、お互い励ましあって乗り越えることができた。
 歩行訓練は歩道のある道、歩道のない道、住宅街、工場街などそれに障害物があったり、車が歩道に置かれていたり、と日毎に難度が増してくる。
 一通り歩けるようになると、その都度、テスト歩行がある。 テストは訓練士から目的の場所へ行くよう指示されるものであるが、はじめにその場所までの交差点の数と何番目の交差点を右折・左折せよ、などを説明される。 それを記憶して頭の中で地図を描き、犬にその都度命令して、目的の場所へ行くというものである。
 うしろに訓練士が付いてくれるとは言え、十数ヶ所もの交差点となると、記憶もあやふやだし、不安を抱きながらの歩行で、目的地に着いたときは、ホッとすると共に一遍に疲れが出たものである。
 間違えたからと言って、免許をもらえないということはないけど、やはり間違えずにうまく行ったときは、嬉しいものだった。
訓練が進んでくると、エレベーターやエスカレーター、電車やバスへの乗り降り、買い物やレストランでの食事や、店内での犬のコントロールの仕方など、だんだん難しい課題へとレベルが上がる。
 訓練の最終段階では、大阪難波へ出かけ、心斎橋や御堂筋を歩き、混雑する商店街やデパート内を歩き回る練習をした。
 外出中でも長時間となると、途中でトイレをさせなければならず、市街地ではなかなか適当な場所がなく、この日もやむなく御堂筋の中央分離帯へ連れて行き、ワンをさせた。このときは訓練士が付いていたので、うまく場所を見つけられたが、単独の場合はトイレのできる場所を、事前にチェックしておく必要がある、と思った。
 訓練士が付き添ってくれたとはいえ、大阪の繁華街を歩き回った体験はニースとともに良い想い出になった。
この一月間。共同訓練を受ける人たちが次々と入所してきた。その人達は2頭目を受ける人ばかりで、2週間で訓練終了である。 後で入所して、先に帰る人、最期の2週間一緒だった人達など多いときで6人にもなった。
 2週目に大阪府のIさんと和歌山県のSさん、3週目には鳥取県のNさんと山口県のHさんが入所してきた。 6人揃ったときを見計らってか、訓練所の配慮で夕食の際、訓練士や職員も含め、焼肉やカレー鍋パーティを計画してくれて、アルコール抜きだったけど、大いに盛り上がり、楽しいひと時を過ごさせていただいた。
 最期は現地訓練が2日間。 家に帰ってから自宅近くの良く使用する道路を、訓練士が付き添って歩行するのだが、自宅は田んぼの中の住宅地で、共同訓練で歩いた道とはだいぶ異なるが、それも無事に終了。 この共同訓練に参加する前、高齢でもあり、体力が持つか心配されたが、訓練そのものはそれほどきつく無く、自分の体力でも付いていけると思った。 ただ、夕食時の晩酌ができなかったことと、夜眠られなかったことが一番辛かった。
 今はその相棒ニースの世話に追われている。 トイレ出し、餌やり、グルーミング、シャンプー、獣医院への通院、など結構忙しい。 でも、自分の散歩の相手、老人ホームの仕事や通院時のガイド、など家族の世話にならず、行動範囲も広がったし、メリットも大きい。 今後はさらにコミュニケーションを深め、末永く良い関係を続けて行きたいものだ。



文芸部へのお誘い

 本会には川柳愛好会の「ドングリ」と俳句愛好会の「若竹」という二つの文芸サークルがあります。
 川柳は三宅保州先生を講師に、俳句は渡辺町子先生を講師に各月毎に会員が投句し、その1句ずつの評や添削をいただき、年に1度句会を開いて直接先生からご指導を受けております。

以下に紹介しているのは、21年度の当サークル員の力作です。
 俳句も川柳もその歴史は古く、同じ17文字の短詞形文学ですが、季語を入れ、主に風景や自然を中心にして文語体で作られる俳句に対し、指定された課題に合った内容で人間を対象に世の中の諷刺やユーモア・皮肉・時事などを詠み込み、分かり易い口語体で作るのが川柳です。 それぞれに味わい深いものがあります。
 興味有るけど難しそうって思われる方、誰でも最初から上手な人はおりません。 とにかく自分の感じたことを5/7/5の短い文章を作ることから始めましょう。 ご興味のある方は、是非、一緒に楽しみませんか。
 「私でもできるかな」と思った方は北口までご連絡ください。

    「若竹」投句集(俳句)

蝋梅に 待合室も 和みけり        (丸山孝雄)
小雪中 ボール蹴りして 犬遊ぶ      (米崎道)
窓を打つ 玉雪の音 耳踊る        (宮原俊恵)
冬帽子 置かれしままや 出番待つ     (市川和郎)
到来の 筍分ける 今朝の庭        (北山和代)
点滴の 長き時間や 春陽落つ       (宮原俊恵)
水温み 帰りそびれた 鴨一羽       (丸山孝雄)
朝掘りの 筍の土 手で拭ひ        (宮地良和)
彼岸入り 逝きし従兄弟の 顔浮かぶ    (市川和郎)
梅雨冷えや 一枚羽織る 昼寝かな     (北山和代)
牡丹寺 一つ一つに 傘差しぬ       (松本薫)
風を切る 自転車の子も 衣替え      (北口豊)
風薫り 大欠伸して 乳母車        (丸山孝雄)
五月晴れ 犬と散歩も 遠周り       (宮地良和)
えんどうを 摘みし鋏の 音軽ろし     (宮原俊恵)
気遣いの 心に触れし 枇杷を剥く     (市川和郎)
耳だけは 預け盲の 花火かな       (北山和代)
風鈴の 伴走ママの 子守歌        (北口豊)
ソーダーに 耳近づけし 夏の音      (宮地良和)
早朝に 子育て学ぶ 親燕         (河野敦美)
古団扇 少し直して よろしくと      (市川和郎)
詰め襟の 遺影の甥に 桃剥きて      (宮原俊恵)
秋陽刺す 郵便受けの 友便り       (北山和代)
曼珠沙華 咲く頃夢に 母が来る      (宮原俊恵)
長き夜や 作りいし句を またも読む    (辻岡正文)
ひぐらしや 朝飯前に 鎌を研ぐ      (丸山孝雄)
歓声や 上がる白球 天高し        (北口豊)
一族の 墓に自ずと 鶏頭が        (河野敦美)
秋の宵 アオマツムシの 跳ぶを聞く    (市川和郎)
花売り女 里のカマキリ 連れて来る    (辻岡正文)
こつこつと 点字の句会 秋惜しむ     (丸山孝雄)
宇宙へと 月下美人が 咲きにけり     (松本薫)
遠回り 金木犀の 香を求め        (河野敦美)
渋柿も 鈴なりにして 見栄を張り     (尾家章夫)
わだかまり 解けず夜更けて 桐一葉    (北口豊)
運動会 留守居にも在り にぎりめし    (市川和郎)


    「ドングリ」投句集(川柳)

  課題=「問う」
灰皿に 吸い殻二三 誰来たの       (一歩)
問い直せず とんちんかんな 受け答え   (照明)
議員さん 質問の人 眠る人        (道)
シャツの紅 問いただされて 四苦八苦   (孝雄)
辛いのに 何故母さんは 笑えるの     (途夢太郎)
病名を 問診前に言う 患者        (良和)
問診の 医師の言葉に 懐疑の目      (章夫)

   課題=「夢」
夢のよう 二人三脚 真珠婚        (志津子)
友の死を 夢であればと 思う我      (敦美)
執念は 見果てぬ夢を 見続ける      (一歩)
ガキ大将 夢で泣いてる 訳は何      (和代)
給付金 夢でハワイへ 飛び立とう     (俊恵)
叶わない からこそそれが 夢である    (途夢太郎)
休肝日 夢でビールを 飲んでいる     (照明)
幸せは ちっちゃな夢の 積み重ね     (良和)
夢有った 金の卵も 半世紀        (孝雄)
寝言から 夢の中まで 探られて      (章夫)

   課題=「変わる」
変わるもんか 総理の椅子に しがみつき  (一歩)
五十路坂 シフトダウンで 超えて来て   (孝雄)
祝賀会 紳士淑女に 早変わり       (志津子)

  課題 「音」
悪びれぬ 音痴に笑い 噛み殺し      (照明)
久々の ラジオドラマに 聴く汽笛     (一歩)
雨だれに 遠き追憶 たぐり寄せ      (敦美)
午前様 足音たてず 鍵を挿す       (良和)
古寺の 鐘新しい 朝報せ         (途夢太郎)
履き癖が ついて一途な 下駄の音     (正文)
波の音 耳に微睡む 旅の宿        (道)
風の音 眠れぬ夜の 友にして       (章夫)
蚊の羽音 涅槃の夢を 妨げる       (志津子)

  課題 「介護」
カラオケも 介護と唱う 故郷(くに)なまり (一歩)
今日もまた 笑い並べて 介護する      (俊恵)
介護保険 貯金と思う ことにする      (途夢太郎)
介護士は いつもほほえみ 聞き上手     (章夫)
介護される 身となり人の 心知る      (道)
寄り添って 老老介護 おかげさま      (志津子)
母介護 協力するよ カップ麺        (孝雄)
見栄張って 介護認定 低くなり       (照明)

  課題 「拝む」
親友の 喪中の葉書 手に拝む        (章夫)
寺神社 拝み回って 自己安堵        (良和)
寄付受けて 感謝に拝む 涙の手       (俊恵)
初詣 家族揃って 祝い膳          (薫)
拝んでる 頭賽銭 越えて行く        (和代)
拝まれる カリスマ鍼師 夢に見る      (途夢太郎)


お楽しみ懸賞クイズ

 今回は、昨年から最近の話題になったニュースからの出題です。
 選択肢を三つにし、比較的参加して貰いやすいようにしました。
 奮ってご参加下さい。
 全問正解の方、5名に豪華景品を準備しています。 なお、正解者多数の場合は抽選とさせて頂きます。
 応募は、メール・郵便にて、平成22年5月10日(必着)までにお寄せ下さい。
 電話での参加はお断りします。

応募先=〒641ー0013 和歌山市内原871ー9  北口 豊
    owlmail-from-tomtarotan@s…

 問1 平成21年から始まった「裁判員裁判制度」は、何月から施    行?
    @ 2月  A 5月  B 11月

 問2 昨年5月、田辺市の内ノ浦湾に迷い込み、話題になった動物    は何?
    @ ゴジラ  A モスラ  B クジラ

 問3 昨年夏に北陸地方などで思いもよらないものが空から降って    きた珍事が話題になり、世間を騒がせたが、その空から降っ    てきたものとは何か?
    @ ハンバーグ  A オタマジャクシ  B 和歌浦煎餅

 問4 ベルリンで開かれた第12回世界陸上で、男子100メート    ルで9秒58という世界新記録を打ち立てたウサインボルト    は何処の国の人。
    @ ケニア  A フィンランド  B ジャマイカ

 問5 童謡「ぞうさん」の作詞者は誰。
    @ 木枯らし紋次郎  A 島崎藤村  B まどみちお


編集後記

 本誌発行に際し、今年は予め数名の人に投稿をお願いしましたところ、快く皆さん忙しい中原稿をお寄せ下さり、無事に本号を発行できる運びとなりました。
 昨年は、白杖をテーマに編集させて頂きましたが、今回は視障者と健常者との交流みたいなものをテーマにしたかったのですが、いまいちうまく行きませんでした。 またそれは次号にでも企画できたらと思います。 原稿をお寄せ頂いた皆さん紙面を借りて御礼申し上げます。 またご無理をお願いの節はどうぞよろしくお願いします。
 それから、クイズコーナーもより多くの方々にご参加頂けるものにしてみましたので、奮ってお答えをお寄せ下さい。
 問題の中に文化研修に参加された方には直ぐ分かる問題もありましたね。 次号のクイズも行事に参加・ご協力頂いた方には分かるような問題を出題し、1人でも本会の行事に参加してもらえるような趣向を考えていきたいと思います。
 本号も最後までお読み頂きありがとうございました。 本誌を読んでの感想やご意見をお聞かせ頂けるようお願いして編集後記といたします。
編集長  北口 豊


 和歌山市視覚障害者福祉協会機関誌「白い杖」(通巻第38号)

  発   行   平成22年3月
  発 行 者   和歌山市視覚障害者福祉協会
  発行責任者   畠中 常男
          電話 073-472ー7872
          〒640-8314 和歌山市神前285ー16
          Eメール hatakenaka@j…
          和歌山市視覚障害者福祉協会のホームページ
          http://washikyo.org/

  編集スタッフ  畠中 常男   山嵜 景生   能澤 義和
          幸前 勇    北口 豊



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