白い杖 第50号


和歌山市視覚障害者福祉協会機関誌「白い杖」第50号




        ー 目  次 ー

 はじめに 会長 畠中常男 ………………………………………… 1
 和視協この1年 書記 寺本津規子 ……………………………… 2
 女性部より 女性部長 坂井法子 ………………………………… 6
 投稿コーナー ………………………………………………………… 7
健康寿命 丸山孝雄 …………………………………………… 7
スマートスピーカーとスマートリモコンを導入 幸前勇 … 8
花柄のハンカチ HIKARI ………………………………10
「G線上のアリア」 生駒芳久 ………………………………13
思わぬ親切に心打たれる!! 能澤義和 ……………………14
どんど焼き 尾家章夫 …………………………………………15
 編集後記 ………………………………………………………………20


   発行者 和歌山市視覚障害者福祉協会 令和4年3月発行
   〒640-8314 和歌山市神前285-16  電話073-472-7872
   ホームページ・アドレス http://washikyo.org/




        はじめに

                    会長  畠中 常男

 ことのほか寒さが厳しかった冬も過ぎ、令和4年の春を迎えました。おかげ様にて、この機関誌「白い杖」も、通巻50号を数えることができました。
 まず、この1年、皆さんから和視協にいただいたご支援とご協力に、役員一同、心より感謝申し上げます。
 ただ残念なことに、「コロナ」も3年目となり、少人数の集まりである理事会や執行部会は、ほぼ例年通り行い、会の運営や行事のプランについての話し合いは続けてはきましたが、結果として大勢の会員が集まる会の行事については、ほとんど何もできず、非常に心苦しく感じております。
 こう言った大変な時期ではありますが、会員の皆様には和視協に席を残して下さり、その上あたたかい応援のお言葉や、機関誌の発行にあたっては原稿をご寄稿いただきました。誠にありがとうございます。
 マスクや手指の消毒、会食はもとより所要による外出を控えることまで常態化し、住む世界がだんだん小さくなっていくような毎日ではありますが、100年前に大流行したスペイン風邪さえ、約3年で終息しました。来年の春こそ、マスクを外して、手を取り合って、大声で話し合える、明るい季節を迎えたいものです。




        和視協この1年

                    書記  寺本 津規子

 まず、この1年に和視協へいただいた、ご支援に感謝いたします。
どうもありがとうございました。

 次に、この1年の入会者と退会者は以下の通りです。

令和3年度には、紀伊分会の藤岡賢さん、西岡俊明さん、中尾謙一さん、それに東久弥さんが入会されました。

 また、令和2年度末で河北分会の吉田征夫さん、
紀伊分会の中村純治さん、吐崎敦子さん、城東分会の米崎道さん、
東和分会の北山和代さん、和歌浦分会の北口豊さんが退会されました。

 最後に、和歌浦分会の中谷敏和さんが、令和2年3月20日に、
また、東和分会の宮本好子さんが、本年1月26日に、お亡くなりになったとのことです。
 つつしんで、お二人のご冥福をお祈り申し上げます。

 現在の和視協の会員数は、令和4年3月現在 94名です。
 以下、令和3年度の和視協の活動についてご報告いたします。


        和視協の行事

 1. まず、令和3年4月4日に開催を予定していた、和視協令和3年度定期総会は、新型コロナ肺炎感染拡大を懸念し、中止としました。 なお、各議案については、既報の通り書面による決議となり、以下のように全て採択されました。

会員総数  95名
回答総数  51通 (郵送32通、メール19通)

 第1号議案 令和2年度事業報告 賛成50 反対1
 第2号議案 令和2年度決算・監査報告 賛成50 反対1
 第3号議案 令和3年度事業計画 賛成50 反対1
 第4号議案 令和3年度予算 賛成49 反対2
 第5号議案 一般提案その他

 2. 和視協文化研修会は、コロナ感染予防に留意しつつ、以下の通り開催しました。

日時 令和3年12月5日 日曜日 13時30分より
場所 和歌山市ふれ愛センター4階大会議室
内容 「新しい市民図書館のお話」
講師 和歌山市民図書館 館長 平井 薫さん
参加者数 30名

 3. この他、5月と8月、年度末に行う理事会と、執行部会については、通常道理開催しましたが、大人数が集まる以下の催しは中止となりました。

6月6日 点字教室
7月4日 第1回教養講座
9月26日 社会見学・文芸大会
10月10日 福祉学習会
令和4年1月16日 研修会
2月13日 第2回教養講座


        女性部の事業

以下予定していた行事は、残念ながらいずれも中止とし、生活情報誌を発行して、年間の活動に代えることとしました。

6月20日 料理教室
8月29日 カラオケ教室
10月24日 手芸教室
12月19日 料理教室
令和4年1月30日 バルーンアート教室
2月20日 手芸教室
3月6日 講演会・総会


        関連団体の行事

 関連団体である県視協や市身連、日視連や日身連・県身連の行事についても、中止となるものが多く、また、リモートでの会議となりました。以下、開催されたものについて、報告いたします。

4月25日 県視協 第1回部会委員会
5月21日 市身連 第1回理事会
6月13日 県視協 文芸大会(俳句) 兼題の部のみ
8月1日 県視協 点字啓発セミナー
8月3日 市身連 第2回理事会
10月24日 県視協 研修会
12月12日 市身連 第3回理事会
令和4年3月6日 第2回県視協部会委員会 書面評決
3月13日 市身連 福祉大会・教育講座 書面開催
3月23日 市身連 第4回理事会


        今年度の表彰者

 令和3年度には、以下の方々が表彰されました。
受賞された皆さん、どうもおめでとうございます。

令和3年11月9日 和歌山市社会福祉功労者表彰式
 和歌山城ホール
 市長表彰 和歌山市社会福祉功労者表彰 畠中 常男さん

令和3年12月3日 第19回「紀の国チャレンジド賞及び紀の国チャレンジド・サポート感謝状」授与式 和歌山県庁
 紀の国チャレンジド・サポート感謝状 知事感謝状 家族功労者賞 小藪 宮子さん

令和3年12月4日 和歌山市障害者福祉表彰式 和歌山市役所
 和歌山市障害者福祉表彰 市長表彰 西中 洋子さん

令和4年3月13日 和歌山市身体障害者連盟 第69回福祉大会
 会長表彰 菅野 恵子さん
 会長感謝状 東 克己さん

 来年度こそは、是非マスクをはずして、みんなで会って話し合える機会を多く持ちたいものです。




          女性部より

                    女性部長  坂井 法子

 皆様この一年いかがお過ごしでしたか?次から次へと行事が中止になり、出かける機会も少なくなり運動不足になってはいませんか?
 年末にはコロナの感染者数も減少していたので「このまま収まってくれたらなあ」という願いも空しく、年明け早々からの感染者数の増加には驚いています。この機関誌が皆様のところへ届く頃にはどうなっていることでしょう。
 とはいえ、女性部としても何もしない訳にはいかないと思い、毎回料理教室で講師をして頂いている「三國先生」の協力を得ながら、和歌山県盲女性家庭生活訓練事業の助成を受け「食の工夫Q&A」という栄養面や食品に関する情報とお手軽レシピなどを掲載した本を作成しました。皆様のお手元に届いてるでしょうか?まだの方は楽しみにお待ち下さい。
 少しでも早く皆様とお会いして楽しい時間が過ごせるよう願っています。




          投稿コーナー

 ここでは、皆さんからいただいた原稿を、順不同で掲載いたします。



        健康寿命

                    東和分会  丸山 孝雄

 55歳のころに健康診断を受け腹部のエコー検査で内蔵脂肪で肝臓が映らないと言われました。そのころさかんにメタボ体形が話題になっていましたが、まさか自分がと驚きました。なんとお腹周りが95センチもありました。考えられることは、50歳で煙草を止めて食欲が出てきたこと。日本酒を飲んだこと。50歳を過ぎ基礎代謝がすくなくなったこと。それに運動不足が原因でした。
 医師から運動を強く勧められました。わたしが失明したころは、同行援護も制限が多く使いにくいものでしたが、このころは医師の指導の散歩も認めてくれました。
 56歳からヘルパーさんにお世話になりながら毎週日曜日3時間半を歩いています
。今年で18年目にはいりました。最初のころは歩く筋力を付けるために5キロほどから始め だんだん距離をのばして毎週12キロ 18000歩はあるいています。
平均10キロとして1年で500キロになり17年でずいぶんあるいたことになります。
 歩き始めの体重は75キロから今は63キロ、ウエストも82センチになりました
。こうして健康に気をつけながら平均寿命を一日でも、後らそうと思っています。



        スマートスピーカーとスマートリモコンを導入

                    河西分会  幸前 勇

 暑い夏、家に帰ってからエアコンの電源を入れても少し時間が経たないと涼しくならない。 家に帰り着く前にエアコンの電源を入れられれば帰ってすぐに涼しい部屋が待っている。
 かと言ってエアコンをかけっぱなしにする訳にもいかないし、帰る時間が決まっていなければタイマーもセット出来ない。
 ”家に着く15分くらい前に出先から家のエアコンの電源を入れられれば”という単純な理由でスマートリモコンを導入する事にした。
 まず、「スマートリモコン」とは、赤外線通信のリモコンに対応する家電を、一括で操作できるモノのこと。 専用のスマホアプリ上で、赤外線通信のリモコンを登録することで使用できる。
 インターネットの通信環境があれば、指のタップや声の操作だけで、テレビ・照明・エアコンなどをコントロールできるのが特徴。
 スマートリモコンを使うことで、部屋がスッキリと片付く。
 私にとっては、リモコンが必要ないので、どこに置いたか探し回る事も無くなった。
 で、前提条件として必要な環境が、インターネット回線とWi−Fi(無線LAN)とスマートフォン。
 エアコン自体は音声ガイドのあるような高級タイプでは無いので、スマートスピーカーを使って音声でコントロール出来るようにしよう。
 一応、環境は揃っているので、ネット通販のAmazonで価格を調査。
私が希望しているタイプは通常時の価格だとスピーカーとリモコンのセットで11960円!
 高い!!もったいない!!
 と言うことでしばらくは棚上げ状態でした。
 それが6月のプライムデーという年に一度のセール期間中に6110円と約半額になっていたので即ポチッてしまった。
 到着した荷物を開けてビックリ!
スマートリモコンって、プラスチックでメッチャ軽い。電源はUSBの Type−Aから取るようになっているので、別にUSBアダプタを用意する必要が。 無ければ百均ショップでも売ってるよね? と言うことで私の部屋にセット。
 専用のアプリもiPhoneのVoiceOverで何とか使えそう。
 丁度夏前だったのでバッチリ!
 家へ帰る時、電車が加太駅に着く前にiPhoneからスマートリモコンのアプリを起動してエアコンの電源を入れておくと帰り着いた頃に部屋が涼しくなっている。
 出先からの操作だけでなく、家内でもスマートスピーカーに向かって音声で指示する事も出来るから更に便利。
 うちのは温度センサーしか付いていないが、照度センサーの付いたものなら明るさに合わせて照明をつけたり消したりのセットも出来る。 ちなみにセットで買ったスマートスピーカーは仕事場に。
 Radikoやインターネット配信している音楽を流すのに丁度良い感じ。 ニュースや天気を聞くのも操作は声で出来るからメッチャ便利。 十分実用性があると確認出来たので、冬を前にして11月のブラックフライデーのセール期間に別のセットを購入。
 今度のセットは安めで通常6840円のものが2990円という事で半額以下。 
今回はリモコンを台所にセットして、スピーカーは私の部屋に。 目覚ましのアラーム時間も声でセット出来るし、起きてから布団を出なくても台所のエアコンの電源を入れられるので少しグズグズしてから布団を出る今日この頃。



        花柄のハンカチ

                    東和分会  HIKARI

10年前に亡くなった姉の荷物を少し家に持ち帰っていた。その中にきれいにアイロンをかけてたたんだハンカチが数枚あった。1つの花柄のハンカチが目に留まり、ひとときそのハンカチを手にし時間が止まった。なぜだろう。と,しばらく考えて思い出した。

姉は几帳面な人だった。ハンカチはきれいにアイロンをかけて百貨店売り場の陳列に並ぶように引き出しの中に収めていた。子供が小さかった頃、5月の連休は姉や兄家族と両親と実家や姉の家で過ごしていた。その年は私の家にみんなが集まった。

姉は汚れたところや私のできていないところを見つけては、かいがいしく世話を焼いてくれた。人にあれこれと言われないようにと、自分なりに一生懸命掃除をしていたつもりだが、気がつくと姉は放っておけない。次から次へと気が付いたところを伝えてくる。さすがの私も、あら探しをされているような気持ちになって姉を攻めた。姉は「そんなつもりはなかったのに」と言って涙ぐんだ、しばらく気まずい時間を過ごした。その時、床に落ちている髪の毛を姉が拾った。私は「手で触って掃除機かけているんだけどな」と言った。姉は、「でも、よその家よりずっと綺麗よ」と行った。少し空気が緩んだ。

2日ほど泊まって帰る日が来た。兄が釣った魚を持ってきた。頼りない妹に一生懸命包丁を持たせて教えようとする。後は手早く3枚におろしてくれた。帰り際に何かハンカチを貸してと姉が言ってきた。姉のブラウスの襟に魚の血が飛んでシミができていた。わたしは真新しい花柄のハンカチをわたした。姉はブラウスの襟を隠すようにそのハンカチをはさみ家に帰っていった。それから30年近くが経った。なんだか気になるそのハンカチが、あの5月の連休に我が家に来たときのハンカチだったことに気がついた。

父は姉を進学させるつもりでいた。ところが姉はさっさと就職を決めて岐阜県に集団就職した。それから名古屋の「日本医療」現在のレナウンの前身の会社で、背広部門で、仕事をしながら、お茶、料理、洋裁など習い事をしていた。袖の縁取りに白いレースをあしらった赤いワンピースを私に縫ってくれたこともあった。

結婚した姉の家へ行くと、手作りの人形や レース編みのテーブルクロスなどで、部屋はきれいに飾り整っていた。料理も凝っていた。いつだったか、姉は手作りのケチャップを作ろうと、完熟させようとしていたバナナを義兄が、腐っていると思って捨ててしまったと。姉がぼやいていたことがあった。子供に習字を教えていた時期もあった。
「私は、中学しか出ていないけど、高校生や大学生に読み書きは負けないよ」と言っていた。

名古屋からお盆や正月に帰郷するときには、田舎では見たことのないようなスーツに、あか抜けしたロングコートを羽織り、必ず兄や私にお土産を持って帰ってきた。6つも上だったので小学部から盲学校の寄宿舎に入った私は、あまり姉と遊んだ記憶がない。子育ても終わり、ゆとりのできた今なら一緒に映画や買い物に行ったりランチをしたりして楽しんでいただろうかと思ったりする。

「お姉ちゃん、もうすぐお姉ちゃんの誕生日だからお母さんとランチしよう。」姉が還暦を迎える歳の誕生日間近に私はメールをした。2・3ヶ月に1度、母の受診日や誕生日のときには泉南のイオンの中にある自然食のお店や和食のお店で3人で、よくランチに出かけた。そんな感じでその時も姉に携帯でメールを送った。「ありがとう。今は花粉症がひどくて外に出られないからまたにして」と返事が返ってきた。姉が末期のガンで入院したと兄から連絡があったのは、それから10日ほど経った頃だった。姉は私たち家族に病気のことを隠し、父の闘病から他界、慢性白血病の母を気遣いながら実家の近くで見守ってくれていたのだ。私はそれから入退院を繰り返す姉の病院と実家を行ったり来たりする日々が続いた。

しっかり者の長女にもほどがある。今ならわかるが、その頃は不思議だった。みんなで食事をしても野菜料理や、ごぼうをまいた田舎巻きしか食べない。病院での治療は受けないと決めて、癌が好む食べ物を避けて数年間も過ごしていたようだ。年老いた母には、姉の病状をふせていた。実家から病院、毎日2度3度と往復しながら、兄と連絡を取り合った。

実家と病院を行き来するのには白杖をつくが、院内はなんとかわかる視力の私なので、夕方病院から帰るときによく杖を忘れそうになる。すると姉は、出ない声で必死になって「つえー、つえー、」と、必死に私に伝えるのです。私は最後の最後まで心配される妹だった。

不思議な出来事にも助けられた。郵便局でお金をおろし、振り込みをしてくるようにと姉に言われて、ATMに行った。操作がわからず郵便局の人にお願いしお金をおろすところまでは良かった。ところが今度は、姉の友人が注文してくれていた品物の代金を振り込まなければならない。振込用紙は友人の名前である。まずい。本人でないことがわかればややこしいことになると思った時だった。通りがかりの人がドアを開け入ってきた。「あのー!換気扇のところから煙が出ているんですけど」と男性が声をかけてきた。そこで私に対応してくれていた人が奥に様子を見に行くことになり、違う人が対応してくれて事なきを得た。本来なら、委任状がいるところ。目に見えない何かに助けられたような気がした。それは本当に不思議な出来事だった。

もう姉の亡くなった年を超えたがいつまでたっても頼りない。「ああっ!こぼれる。
こぼれる」「そこ、そこにあるよ」「あぶない!」「ほらほら」と危なっかしい妹をはらはらしなら、空から見ているような気がする。



        「G線上のアリア」

                    河西分会  生駒 芳久

 「G線上のアリア」は、バイオリンのGの弦一本を使って弾くらしい。もう何年か前のことになるが、当時ウクレレ初心者でGの弦の高い音が気になっていた私は、バイオリンのようにウクレレで「G線上のアリア」がひけるのだろうかという素朴な疑問を持った。
しかし取りかかるとそれは簡単なことではないと分かった。この曲はバッハの管弦樂組曲を、100年以上後になって、ドイツのバイオリニストが編曲し有名になったのだという。
 ウクレレとバイオリンは全く違う楽器なのに、大きさや形が似ている。弦が4本張られ、それに一番上の弦がG(ソの音)である。
ところがバイオリンと違うのは、その一番上の弦にオクターブ高い細い弦が張られていることである。その高い軽い音がウクレレの特徴ある響きを生み出している。あのハワイアンの調べだ。

 そこでいろいろ思案した挙句、低い音にするためにギターの弦を代用するのはどうだろうかと思いついた。ショッピングモールの楽器売り場で相談すると、店員さんは「ローGですか?」という。「何??」、「ローGですか」ともう一度言われてはっとした。
「なんだ!」、ウクレレ用に低いGの弦が製品として売られているのだ。うれしくなって早速買い求め、その弦を張った。
ところが、「G線上のアリア」に取り組み始めても曲のメロディが頭に入らない。楽譜に頼れない私たちは、メロディを空で歌えるくらいにならないと曲が弾けない。それさえ出来ないのだ。まして1本の弦の上を左から右、右から左へと次々と指を滑らさなくてはならないこの曲は相当のテクニックがいる。私にはとても及ばないことだった。
 その後も時々思い出したようにやってみるが、やっぱり歯が立たない。ところが太いGの線を張ったウクレレは、ギターのような音色がして歌の伴奏には丁度よいのだ
。つい懐かしのメロディを口ずさんでいるといつの間にか時間が経ってしまう。「ふるさと」「北帰港」など同じような曲ばかり弾いている。そんなことをしているうちに4、5年もたってしまった。いつになったらG線上のアリアを弾けるようになるのだろうか。



        思わぬ親切に心打たれる!!

                    新光分会  能澤 義和

 昨年10月に起こった六十谷の水管橋の破損事故については、皆さんの記憶にもまだまだ新しい事件だと思います。直接被害にあった者にとってはなおさらです。あのとき、テレビからこのニュースが報道されたとき、私も一瞬信じられませんでした。
いったい何が起こったんだろうと思いました。
その後、関係者の皆さんの必死な努力のおかげで、何とか発生から約1週間で回復しましたが、あの1週間は本当に大変でした。普段、あたりまえのようになにげなく自由に使っていた水が、こんなに貴重なものだったのかと、改めて感じさせられた出来事でもありました。
 それにしても、直接の責任は無いと思われる市長さんが、このことで年末のボーナスを全て返上するとは、何と潔い人だなと思いました。さすがに尾花市長です。現在も完全復興に向けた工事が進行中ですが、逸早い復興を願うばかりです。
 さて、今回の事故を通して、私にとっては思いがけないいいこともありました。それは、人の親切に触れることができたことです。普段、話したこともない近所の方が、声をかけてくれたり、タンクの水をふらふらと運んでいるときなどは、「持ってあげるよ!」と、気軽に声をかけて手を貸してくれる人も1人やふたりではなかったのです。もちろん、私が視覚障害者であるということを知ってのことだとは思いますが、日頃そんなこと話題にしたこともない人たちでしたので、ちゃんと見ていてくれているんだなと感激しました。また、ご無沙汰している知人が、「困っているだろうから!」と言って、遠いところをわざわざ水を持ってきてくれたりもしました。人の親切に改めて感動しました。いずれやってくるかもしれない大地震は確かに不安ではありますが、おそらくこんな感じで、きっと地域の皆さんにお世話になるのかなという思いもしました。これからは私も、自治会などが主催する夏祭りやハイキング、餅つき等には積極的に参加しようかなと思います。なにげない近所付き合いが発展して、地域での相互理解も生まれていくのだと思います。私たち障害者は、つい障害というものを過剰に意識してしまい、どうしても引っ込み思案になりがちですが、周りの人はそんなことあまり気にしてないのかもしれません。障害に躊躇することなく、援助が必要なときには、遠慮なく協力をお願いしてはどうでしょう。困っているときはお互い様ですからね。これが共助ですよね。禍転じて福となすことを実体験できたある日の私でした。失礼します。



        どんど焼き

                    紀伊分会  尾家 章夫

私の田舎には子供達が主役の行事があって、それはひと月遅れの2月14日に行われる、小正月の行事の ドンド焼きです。
ドンド焼きはさぎちょうとも言われるそうで、現在でも各地で行われているようですが、正月のお飾りなどを集めて燃やし、その火でお餅を焼いて食べることで、無病息災を祈念したり、又ドンドで焼いている書初めの紙が空高く舞い上がることで、書道の上達を占ったりするところもあったようです。

私の田舎のドンド焼きはチョッとかわっていて、お飾りだけでなく、竹を切って、集めて燃やすのです。
冬休みが終わって、3学期が始まると、子供達は学校から帰ると川原に集まって、ドンド焼きで燃やす 竹を切り出すのです。
川原には雌ダケの竹やぶがあって、そこから鎌で切り出すのですが、30本くらいを一束にして、ドンド焼きの場所まで運ぶのです。
自分の背丈の2・3倍もある竹の束を肩に担いで引きずって運び、置き場に積み上げていくのですが、段々と竹の束の山が大きくなってくるのを見て、子供達は満足したものです。
ドンド焼きの当日までには150束くらいは切り出したかな?。

小学生だけで行うのですが、6年生が大将でそれに従って、みんなで力を合わせて取り組んだものです。
でも、子供達の楽しみはそれだけでなく、先ずは竹やぶに入って、自分達の住処を作ってそこで遊ぶのがもう一つの楽しみでした。
竹やぶを切り開いて、その竹を組み合わせて壁にしたり屋根を作ったり、子供なりにけっこう工夫して、狭いながらもいい空間でした。
そこで焚き火をしたり、お餅を焼いて食べたりして遊んだものです。
遊びの中で竹を何束切らなければという、目標なんかも決めていたように記憶しています。ただ、遊びすぎて一束も切らずに終わった日もありました。

大人に命じられるわけでもないのに、時期が来れば子供達だけで進めていくなんて今から想えば、凄いことですよね。伝統の力なんですかねぇ?。
ただ、今は川原も護岸工事できれいに整備されて竹やぶもなくなっています。
思い出の場所が消えて残念です。
その点、今の子供達は外で遊ぶ場所も少なくなったり、また、親達が子供の遊びに干渉しすぎたりで、いろいろと体験できないのが寂しいでしょうね。

2月14日のドンド焼きが近づくと 今度は山に行って、ドンド焼きに使う かずらや お餅を焼くのに使う 少し長い目の竹を切り出して来ます。
そして、当日はいよいよ組み立てに入るのですが、どんどの中心になる神木(しんぼく)となる、松の木と孟宗竹の切り出しや ドンドを作る作業は大人達がやってくれます。

その前に子供達はリヤカーを引いて、地区の家いえを回り、どんど焼きに使う藁を貰いに行きます。そしてそのときに山で切ってきた餅焼き用の竹ざおを配って歩くのです。
商家や勤め人の家では、藁の代わりに心づけのおひねりがもらえるんです。
そして、そのおひねりは後の楽しみの、打ち揚げの会で使われます。

ドンド焼きの造作は、大人たちの力を借りないと、子供達だけではとうてい無理なので、当日は大人たちが手伝いに出てくれます。

先ず中心になるところに穴を掘って 神木(しんぼく)となる、松の木と竹を立て、根元を藁で囲って、その周りに集めた竹の束を立てかけます。
倒れないようにかずらで縛ってから、束ねた束をバラして 周囲の竹の厚みが均一になるようにします。その後中心部に向かって点火するための穴を4箇所開けます。

建てられた どんどは子供の目から見て、ずいぶん大きかったように思います。
多分直径が3メートル、高さが4メートルぐらいはあったかと思います。
これを眺めて子供達は口々に 「ワアー、どげち 大きいちゃぁ」、などと叫んで、喜びを新たにしたものです。

やがて、夕暮れ時になると地区の人々が正月のおかざりや、餅を吊った竹竿などを手に 三々五々集まってきます。

そして、いよいよ点火となります。
このドンド焼きは、川を挟んで対岸の地区 2箇所でも行われており、殆ど同時に点火されます。
中心部の藁に火がつくと、すぐに点火用の穴をふさぎます。
すると煙がもうもうと立ち上がり、天を覆ういきおいです。
対岸の2箇所のドンドも煙を上げています。子供の目には夕暮れの空に向かってモクモクと昇る煙を見ていると、さながら天に昇る龍のようで、何か神秘的なものを感じていました。

やがて外側の竹に燃え移ってきて、パーン、パーンと竹のはじける音がして、上部より炎が漏れ出し、天空を紅く焦がします。
ただ、炎が早く漏れ出すと言うことはドンドが小さかったことになり、子供達にとっては恥ずかしいこととされていました。
それで、対岸の2箇所のドンドの様子が気になり、自分達より先に炎が上がるたびに、勝った勝った、と歓声を上げたものです。

お餅を焼くには、竹ざおの先を割って、そこへ餅を挟んだものや、餅アミで餅を挟んで竿の先に吊るしているものなど、それぞれ工夫をこらしていましたが、炎に触れて餅に火がついたり、火の中に落としたりと、その度に笑いが起こり、みんな和気藹藹の中でドンド焼きを楽しんでいました。
焼いたお餅は、翌朝のお粥の中に入れて食べると、この1年間無病息災で暮らせるとされていました。

ドンド焼きが終わって、1週間後くらいに子供達をねぎらう打ち上げの会が開かれます。
この会は子供達の家々が持ち周りで場所を提供してくれ、ドンド焼きの時に頂いたおひねりをその費用に当てます。
そして、子供達だけでごちそうやお菓子を頂き、ゲームをしたり、ふざけあったりして、楽しい1日を過ごします。

今から想えば、よくもまあ子供達だけでドンド焼きの行事を続けられてきたものだと感心します。
ただ、大人から直接ああやこうやという指示は無かったけど、時々「もう、どんどの竹はきっちょるんか?」、などとそれとなく子供達に声を掛けてくれていたように思います。
そんなことで、あまり干渉はしないけど、それとなく周りで見守ってくれていたのでしょう。

ドンド焼きが終わると、山間の村には、春の息吹が そこ、ここに、見られるようになります。
川原の猫柳の木もその一つで、猫の尻尾のような花を付けていたのは、丁度この頃だったかと思います。花というより、ふわふわとした綿毛の穂で、暖かい感触だったのを憶えています。

当時は終戦後の貧しい時代だったから、娯楽というものもなく、伝統的な行事を大人も子供も一緒になって守り、また 楽しんでいたのかもしれません。

現在とは時代が違いすぎますが、大人も子供も一緒になって遊ぶ行事をつくり、育てたいものですね。




          編集後記

 今号も最後までお読み下さり、どうもありがとうございました。
発行にあたり、原稿を募集したのですが、締め切り期日を迎えてもほとんど原稿が集まりませんでした。
 そこでメールにて「このままでは発行できません。是非ご協力を」とお願いしたところ、幾人かの方々からご寄稿いただき、通巻第50号を発行することができました
。どうもありがとうございます。
一昨年まで、編集を担当していた北口さんが、体調不良につき会を退きましたので、残念なことに俳句や川柳を掲載する「文芸コーナー」や、名物規格の「クイズコーナー」は、今号も休載です。
 最後になりましたが、この1年に皆さんから和視協にいただいたご理解とご支援に対し、深甚なる謝意を表しますとともに、今後ともよろしくお願い申し上げ、編集後記といたします。



 和歌山市視覚障害者福祉協会機関誌「白い杖」第50号
 令和4年3月吉日発行
 発行者 和歌山市視覚障害者福祉協会
 編集責任者 畠中 常男

 編集スタッフ  幸前 勇   寺本 津規子
         松下 淳二  畠中 常男




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